岡山県洋画界の先駆者
堀家は代々、総社宮の神職として仕え、江戸時代後期には「志保屋(塩屋)」という屋号で、酒等の売買、両替商、回船問屋を営む豪商だった。また、備中松山藩の御用商人にとり立てられ、商人でありながら名字帯刀を許されていた。堀和平安郷(ほりわへいやすさと)は、1841年(天保12年)堀家の四男として総社に生まれる。和平は、明治の初め頃、家業の「志保屋」を相続し、主に反物を商った。その後、商いを広げ、大阪に問屋「志保藤(しほとう)商店」を開く。洋画に感心を抱くようになったのはこの頃。商売を通じて神戸を行き来するうち、油絵に接する機会を得たようである。 それまでも「杏邨(きょうそん)」の名で水墨画を書いていた和平だったが、洋画に強く惹かれた彼は、当時、高価で入手困難だった油絵の具や筆などを買い求め、独学で油絵を学び、自宅裏の長屋門の二階をアトリエとして本格的に油絵を描き始める。 総社出身の吉冨朝次郎(よしとみあさじろう)、同じく総社出身の満谷国四郎(みつたにくにしろう。堀家とは親類)にも多大な影響を与えたと思われる。 ちなみに和平の代表作「母子像」は、倉敷市立美術館に所蔵されている。51歳になった和平は、新規事業を興すために総社市を離れ、神戸に移るが。その翌年の明治25年、病により急逝する。享年52歳であった。
古き良き総社